「7月に書いた文章です」
私は大学内唯一のノーマスク女です。たぶん1万弱ほどは大学生がいると思うけど、私がすれ違う中でマスクつけてない大学生はいなかったかな。本当に私だけノーマスクなの。不織布マスクつけるように言われてるからほぼ全員不織布マスクかウレタンマスクはしてるし、2重マスクの子もいる。
そしてワクもばんばん打っちゃうの。
学期はじめにこのコロナ過に疑問を持ってる先生が普通のカリキュラムとは別枠で
マスクの害やコロナでの若者の重傷者がいないことなどを絡めて社会に疑問を持つように取り上げてくれたのだけど、全然マスクを外す人がいなかった。
私の大学は「優等生ちゃん」で生きてきた人が多い。ちゃんと頭は良くて大学内で教えられれば難しい概念に対しても、よく理解してアウトプットして喋るのも得意な子が多い。
だけどその人たちの基本ベースとして生きてきた道が先生に言われたとおりに勉強して覚えて模範的な例に沿った生き方に寄せることでうまくいってきた。っていうのもあって社会に対して不満や疑問を持ったりしたことがない。マスコミで垂れ流された範囲内の見解での時事問題しか知らない人がごまんといる。
そして偏見かもしれないけど多少の勝ち組意識があって
「模範型の生き方に組していくルートで自分それなりの道をやっていける」と思ってる場所があるのかもしれない。だから主流の価値観から出てしまうほどの思い切りが無く、若いのに社会に迎合しがちなのだ。
自分が不信感や疑念を抱く先の大手のマスコミや政府、つまり敵というの、が実は今まで模範的な在り様を競わせ自分たちを操るために奨励してきた立場にあるものであったなんていうのは受け入れがたい。自分が模範に合わせて生きてきたからこそ自分が価値ある人物だと思わせてくれる保証先を疑うわけにはいかないのだ。たくさんの仲間に囲まれて順風満帆と思ったら疑念を抱いただけでアイデンティティーも仲間も失う。
自分が自分を肯定するのではなく、社会の中で価値があるとされている基準に染まることで自分をやっと肯定できるような大学生たちが多いのだ。用意してもらった基準に染まることで自分を肯定できると感じる価値を守っていきている。マスクを外すと落伍者になるような風潮があるから、落伍者にならない基準を守るために必死なのだ。
夏の暑い日にもマスクを外さずに息切れまで起こしている。とても苦しそうだけど外さない。
確かに教室に入室するときはマスク必須というポスターなどいたるところに張られているから守っているんだろうけど、自分の苦しさそっちのけで基準を守るだなんて
まるで大学のために生きているよう。
大学の基準>自分の身体
になって自分より基準が自分を表明する大切なものとして先立ってしまっているのだ。
自分の身体>大学の基準
に戻して、自分主体で考えないと自分を大切にした判断ができなくなる。
特に優等生ちゃんは自分が基準に寄り添う代わりに基準に守られてきた側だから逸脱して人より悪目立ちするよりか、我慢でなんとかなるなら我慢してしまう。
自分のよりどころを「基準」にしてしまうままで生きていると、いつのまにか基準によって自分が奪われてしまうような気がする。
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