自己肯定感を下げていた小中学の刷り込み教育の授業

スピリチュアル

みなさんは小中高と「尊敬する偉人たちを一つ書き、その理由をこたえる」といったことを道徳の授業等で1度はやらされた覚えがあると思います。

その時に、

「その偉人|は自分にはないものを持っている」点

「その偉人|が頑張っている点」

「その偉人|に近づくために今から頑張りたいこと」

このような点を意識させられて 自分に達成出来てないこと、足りないところをまず紹介し
そのうえで偉人が持っているモノを素晴らしい点として取り上げ
自分には持ってないけど その友達や偉人が持っているモノに近づけるように 今から努力したいことを伝える。

このような作文を書かされましたよね。

 

学校の道徳でやるくらいだから、この作文を書くことで これはさぞいいことで

精神性が少し上がったり、大人に近づくのに大事だとか思わされてませんでしたか?

小学校低学年くらいだと 私も これで少しづつ立派な大人になるための訓練なんだ!と純朴に授業やってた頃があります。
しかーし!

はい、まったく意味ない!(笑)むしろ逆効果!

 

結論言います!

実は この授業 自分を自分でなくさせる刷り込みが入っています

{偉人は持っているけど、自分は持ってない }そういう「何か足りないという点」を生み出し
そこに意識を向けさせることは 
刷り込みなんです。

そもそも尊敬すべき偉人と比べて 自分の何かが欠落していたとしても 自分の人生に関係ないものであればまったく問題はないし本来不足感はないはずなんですが…。しかし偉人と比べて自身に足りないものを無理やり目を向けさせるのは 頑張って努力して足りない部分を得ていかねばならないと思ってしまう文脈にさらされてしまいます。

本当は足りなくていいものを 「足りないと良くない」というイメージで浮彫にさせて そこばかり意識させるような精神は このあたりで作られているでしょう。

自分のままでいい という感覚を奪い、「別の何者かになるように目指さねばならない」

と焦らせる刷り込みです。

 

本当ならあんまり「自分と違う」偉人は作らないほうがいいですし、尊敬する人は「自分です」と答えられるくらいがいいんです。

もし「自分の好きなところを書け」か「自分のキャラに似た偉人を紹介する」というのだったらどうでしょう?

自分のキャラと似ている人が成功してる様子は

「なんだか自分の性格や個性をこのまま伸ばしていけば幸せにいきてけそうな気がする・・・」という発想になるんですよ。

自分と似てる人が幸せであると なんとも自己肯定感が上がります。

しかしここで自分とは違う人を尊敬する視点にもっていかせて文を書こうとすると
自分と違う点というのを見つけなくてはなりません。自分のできること できないことの境界線というのをくっきりつけていく作業をしなくてはならないのです。

もう一つの残念な点が 自分のできてないことが「尊敬する人のすごい点」であるため
[自分のできてないこと=価値ある目指すべきところ」 という構図ができます。なので無理やり自分の外にある能力を一生かけて伸ばさなくてはならない命題を自分で付与してることになるんです

できること|できないこと  できてること|できてないこと

この境界線はつけずに「自分はいろんな可能性に開かれてる・・・」という漠然とした全能感があるほうが 潜在的な能力って伸びやすいですし 一般的で安全志向なゴールではないところも目指していきやすいです。

「できないこと」である「自分の外にある能力」を無理やり見つけ出し それをできるようにするというのって 一度自分の内側から外にあるものだと切り離した存在をもう一度追いかけるってことですよ。全能の感覚を持ってた自分の内側から 外側を作り出し 「自分は完全からみると足りない存在だ」と貶めているってことです。

・自分の内面から能力を切り離し 外側を作る行為
・切り離した外側を 一生かけて自分が求めなくてはならない命題を自分で作る。

というのは 「自分を何か足りない存在」に仕立て上げます。

一生 自分の内面に関心をもって伸ばす思考を奪い 幼少のときに自分が切り離した外側に関心が行くようにする。全員 足りない何かを埋める旅に一生かけて向かわせる。

これが元凶ですかね。自分の内面を好きと思い そこにばっかり関心持ってる人って支配者からみると操りにくいのですよ。庶民が勝手に幸せになってくれちゃうから。

「足りない」 という感覚を作らせておくと「足りない」状態から庶民は脱出したいから 足りないを埋める手段が欲しくてたまらなくなる。だから ぶらさげられた手段にはすぐ飛びつくから操りやすい。

足りない何かを埋める旅の道中で{○○を目指せば、○○を手に入れると「足りない」から脱出できるよ}というセリフとともに と解決手段の餌をぶらさげても 血眼になって飛びつかないから 提供しても需要を持ってくれないんですよね。

「足りない自分という内面」と目指すべき理想がある外の世界」と区切りをする意識が沸き、
「足りないものを満たせるかもしれない外の理想へと行かねばならぬ」概念を作られてしまいます。

そんな感じです。自分で目指すべきゴールを選ばずに 足りないを刺激されて 足りないもの探しの旅に出かけて 足りないを埋めれそうな餌を血眼でもらいに行く。!

支配者側は 庶民が足りないと思ってる神経なら 庶民の動向もわかるし

解決手段を貰うと大喜びするから ニーズを把握したうえでモノを売りつけることができるからね。

自己卑下精神がある人は いつまでも自分の中にあるものを誇らしく思う機会を味わってないから、外にある「社会の中で価値が高いと思われてる何か」をゲットすれば それだけで 自分の価値も上がると当たり前のように思い込むのです。

価値が高いと思われてる概念を設定するのは 支配者側なんですよ。

 

だから

足りない を意識させる準備体操をする 「偉人|の自分とは違う素晴らしいみつけよう」の道徳の授業は自分を肯定できないように持っていき不足感を植え付けるための刷り込みなのです。
「自分の弱みに対処しないままのうのうと進めてはダメだ!」「反省して直していこう!」という根性論は「足りないところを埋めてこそ価値がある」という洗脳にかかります。

潜在意識では自分の良さが分かっていても 表層の世界の環境の構造で作られた人格が意識を作り上げ 潜在意識と 意識の葛藤が生じます。

足りないところを探すな!自分の内面を尊敬しろ!

※「尊敬する人は自分です」と授業中に書きたかった。でも「自分で自画自賛しても成長にならないじゃん!」と言われたから 尊敬する人はおかあさん って書いた。こんな紹介文を添えて。

「私の尊敬する人はおかあさんです。なぜなら私に似ていて変態で、自分自身を大事にしていて、面白くて、頭がいいからです!」って言ってやった。

これでいいんだよ。母にも苦笑されたし、クラスのみんなには受け狙いか?と思われたと思うけど!

これが一番自分が自分でいられる方法だと思った。自分に似た存在を見つけて 自分と似たキャラのままで幸せにやってけるんだって思うと、ちゃんと自分の中に関心が沸いてくる。

だからね

足りなくてもだいたい世の中やってけるから。無理に足りないとこを伸ばそうとするから個性削れるし楽しくないんだよ。楽しくないものを目指すのはもうよそうぜ!

誰かのための自分じゃなくて自分のための自分だから自分にとって楽しいことしてこーね。

 

 

 

 

 

 

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